江戸は大きな泥土湿地帯であることと地震が頻繁におきていたことから江戸の開発は困難を極めた。特に江戸城の大規模な石垣工事と城の造営は不可能と思われた。
その造成を可能にした知恵とは、皮をむいた松丸太直径1尺(30cm)以上、長さ6間半(12m)以上を井桁に組み筏をつくり、その中に大小の石を詰めて沈めて行った上に石垣や櫓を組んだ。特に天主閣は重量がかかることから大きな松を使ったと思われる。
このことから、江戸城はバランスをとって泥土に浮かんでいるといえる。松は横の応力に対し強靭な力を発揮するとともに水中では腐らない特性を兼ね備えている。
江戸開発にともない周辺の石材や木材の不足が続き比較的手に入りやすい松は橋やその他構造物の梁に利用されている。
利根川沿いの木を伐り尽くした幕府は、上野寛永寺を建立するにあたり全国の緒大名に石材と木材の調達を下命するが入手は困難を極めた。そこで、商人にふれをだし木材を集めようとするが、採算に合う近場の森林は伐り尽くしており、残るは暴れ川で名高い天竜川流域の森林のみであった。
そのことを知った紀伊国屋文左衛門はみかんで得た収益を投じるとともに幕府からお金借受し、道の無い山間部では誰もが不可能といわれた暴れ天竜川から大量の木材を伐り出すことに成功する。
その方法は、ふるさとの紀州奥地で行われていた鉄砲堰と管流しに依った。鉄砲堰は小さな沢に丸太で堰をつくり水漏れしない様に隙間に苔を挿み、水を溜め伐り出した木材を堰に溜め雨降りに合わせ堰をきり木材を一気に本流に流す工法である。鉄砲堰の本流には木材貯蔵の堰を設けた。その堰から山裾に木材を流す木材を組んだ水路を設けることで激流を避け次の木材貯蔵堰まで流した。激流地域下流で筏に組み海近くに運び船積みして江戸に運んだ。このことで、紀伊國屋文左衛門は木材により50万両という途方もない蓄財をなしたといわれる。
逸話であるが、ある日大尽遊びをしていた同業の奈良屋茂左衛門に明日の夕刻のあなたにご馳走をしたいが如何かと尋ねた。奈良屋にしてみれば紀文程のものがご馳走とゆうからにはよほどのことであろうと期待し座敷に行くとお膳に一善のお椀がおいてあった。これはどうしたことかと不機嫌に文左衛門に尋ねると、まずはめしあがれというので口を付けるとなかなかに美味しい。ころあいを見た紀文は水は今朝富士より運ばせ、お米は昨日新潟から取り寄せた新米であり、なら漬けは1日をかけ早舟でもってこさせたもので1椀千両でございますと言い放ったとかいう。江戸中期には全国情報網と運搬手段が確立されていたと考えられる。