武田信玄による笛吹川の治水治山 · 07日 11月 2019
武田信玄は山本勘介の進言を入れ釜無川と御勅使川(みだいがわ)の改修工事と笛吹川の治水工事を開始した。当時、毎年氾濫を繰返す河川に対し農民は困窮の極みに達していた。治水工事は川に杭打ちが出来ない、堤防の洗掘が激しく困難を極めるが杭打ちせず牛枠工法(木枠を組その中に石や蛇篭を置いた)や洗掘防止に割竹で編んだ蛇篭工法(直径50cm、長さ3m前後の竹篭にカボチャ大の石を入れた)。さらに堤体に破竹や女竹を植え網の目状に張った根で洪水から堤防を守った。なお、山間部から平野部の出口に当たる場所はどうしても堤防が切れることから堤体の裏に水守神社を設けケヤキ林を造成した。このケヤキ林はもし堤体が切れ氾濫してもケヤキ林に木やゴミがかかり洪水の勢いを止める効果があった。 この信玄堤は武田家が滅びたの後も徳川家に引継がれ治水工法として全国に広まった。また、急傾斜地に苦竹(真竹)や欅を植え治山に努めさせた。加賀藩では雪崩や土砂崩れが起きた場所は欅や橅を植林し「斧いらずの森」がつくられ村の家々を災害から守った。 今日、崖崩れのニースを見ていると崩れるべき場所が崩壊しているように思える。治山治水のあり方をもう一度考える必要がある。 山は考え方や知識を間違えてとらえ指導することは人災と言われても仕方がない。