明治6年イギリスのゲットウ(ユダヤ人保留区)から旅立った1人の貧しい青年がいた。彼は9人兄弟の末っ子でお父さんは廃品を集め細々と暮らしていたが生活出来ないので末の息子にその日の売上を渡し自分で生活して欲しいと頼んだ。
彼は、東洋への船にのり中国に向かったが次の寄港地の横浜まで乗船した。船を降りるとき懐には9セントしかなくパンを買う事も出来なかった。
夕方、ぼんやりと浜辺を見ていると、おかみさん達が腰をかがめ何かをしていたが、人のものを盗ってはならないとのユダヤの戒めがありその日は海岸で寝た。翌日、数人の人たちが何かを海に捨てていたので何なのか見に行くと貝であった。
人の捨てたものは獲っても罪にならないので彼はそれを拾い持帰り眺めると美しいことに気付いた。貝の中心に穴を二つ開け周辺を丸く削ってみた。それを貴族のボタンとして父親に送ってみた。すると、女性の間で評判になり注文が殺到した。そこで、種類の違う貝や大きさの違うボタンを大量にイギリスに送ったことでかなりの大金を得ることができた。
さらに、日本人が捨てているものがないか探してみると。文明開化で江戸文化が否定され螺鈿や金銀の入った漆器が見向きもされていないことを知る。
さっそく、使い道を考えイギリスの父親に送りシュガーケースとして持ち歩いて欲しいと頼んだところ黒色の小箱と螺鈿の青に金銀の輝きが受け小間使いの間でうわさになり、それを見た貴婦人がティータイムに使うシュガーケースとしてこぞって買い求めた。
その後、少し大きめの硯箱を葉巻ケースとして父親に送ったところ、暖炉の上に置く葉巻ケースとして貴族の間で大変喜ばれた。
このことで大きな資産を得たマーカス・サミエルはタンカ9隻を発注し、貝のマークのシェル石油の事業を起こした。
驚くことは、その当時は石油はドラム缶で積み下ろししていたものを時間と労力がかかりすぎると、今日のタンカーの原形であるドラムカンの構造にする様指示した。
彼は、その後ユダヤ人ではありえないロンドン市長になった。