織田家代々と信長は津島と熱田の貿易で経済力を蓄えた。さらに、堺に莫大な富があること知った。そこで、農地から得られる米やや金山銀山から得られる金銀より効率的で短期間に収益が得られることに目を付けた。また、斉藤道三が行っていた楽市をとりこんだり、さらに家来80人前後を伴い将軍足利義輝に謁見するとともに商業地大津、堺の町を見分しに出かけた。堺ではキリスト教に出会い、彼らが命より大事なキリスト像について堺の商人から話しを聴いた。そこで、尾張に戻り津島港からキリスト像を入れるクルスボックスを白や青螺鈿、金銀の漆器ででつくるよう指示した。
これが、大ヒットしクルスボックス以外の注文が入り莫大な軍資金を得る事となった。
そこで、農閑期だけの農民兵から何時でも戦いができる信長の専属兵を求めるふれをだした。当時は長男が家督を継ぐことからたとえ優秀でも武勇に優れていたも部屋住みで仕官は叶わなかった。その、次男、三男を対象に約800人を雇い入れ年間をとおし何時でも戦える兵を得た。
さらに、長槍武器の改良、軽装兵の武具の改善をおこなっている。戦い方も個人戦から団体戦、集団戦の戦い方を鷹狩りで徹底的に収得させ実践に向く集団に変貌させていった。また、敵の弱い所から攻めるのは常道であったが信長は指揮を行っている中心人物をターゲットにする戦術をとった。
当時の欧州では黒の良質なラッカーは無かったが日本の漆器の様に黒光りし金銀があし合われたその美しさは芸術品として絶品であった。彼らはクルスボックスの他の漆小物を大金を払い求めた。
この日本の漆はオーストリアのハプスブルクの女帝マリア・テレジアは贅の象徴である漆の間をつくり、後にフランス国王ルイ16世の妃になったマリーアントワネットを漆の間で育てたといわれている。
信長が天下とりに都に入ったとき、富みの集中は本願寺と堺にあることから矢銭を本願寺に5千貫、堺に2万貫を課することになる。
この様に、信長は日本の文化であった漆器で錬金術のごとく大金を得て、軍を整え鉄砲や火薬を仕入れていった。