波の穏やかな日本海を北前船が大阪から北海道を廻船し巨万の富を生み出した。加賀市の橋立、塩屋、瀬越、吉崎には千石船や五百石船の船主が55名いた。彼らは組合のような組織をつくり北海道の函館から大阪まで港から港まで商いを繰り返し利益をえた。例えば京、大阪でひな人形や京人形を瀬戸内で塩、九州で船の重石になる大理石、島根で鉄、能登で木炭、酒田で米や紅花、北海道で昆布や干アワビ、干ニシン(高級金肥)を仕入れ1航海で千両(現在の金額で6千万円から1億円)の利益になった。大豪商になると千石船を200隻保有していたといわれている。
さらに、明治以前は年に1航海しか松前藩は許可しなかったが明治に入り年3~4回の航海が可能となったことで莫大な利益を生むにいたった。
木造船の材料は杉材(神武天皇が適材適所の中で杉は舟に!)であり、菅谷神社の国指定の大杉はそれまで一本杉であったが村人が北前船の帆柱に使おうと話すことを聴いて翌朝には三又の杉になったとの伝説がある。
さらに、船が1年間航海すると貝やイソギンチャクが付着し船足を遅くするため船の外壁に薄い船板を貼り航海が終わると取外し海岸沿いの船主や船頭の家の外壁に用いられた。この船板は100年たっても腐らないといわれている。