一木一草のない平坦な砂漠、時々見える砂丘、人々を苦しめる砂嵐、一夜にして高さ2~3mの砂が移動し山をつくる。ある冬の季節風の強い夜数軒の家が砂に呑み込まれ死人が出た。田も畑も川までもが一夜に失われてしまう。江戸後期に藩は松奉行を置き村人と共に対策にあたらせたが人の力ではこの広大な砂漠はどうすることもできず失敗の連続であった。
明治に入り、当時農務省の役人であった柳田国男が北國視察の折りにこの海岸に立ち寄った。村人や村長が出迎え砂漠の現状を訴えた。現地を視察し実状を知らされ驚き、ここに松を植えるように予が知事に言っておくと言い残した。翌年、国より役人と正木技師が派遣され、つぶさに資料や現地踏査し結論に達した。正木技師が提案した方法は柵による砂止めをおこなうことであった。早々試作を開始するため近隣の村人が集められた。さらに近隣の山から赤松丸太杭が伐り出され近くの薮から破竹や真竹、ワラ縄が集められた。
冬の季節風の風道に対し直角方向に松丸太杭を打ち込み杭と杭の間に竹を編み込みワラ縄で結束し柵が完成した。この柵は一夜にして砂に埋もれた。このことは予測されたことでさらにその埋まった砂山の上に柵を構えた。しかし、この柵も埋まったがさらにその上に柵を設けたことで地形が変わった。そのことで、風道に変化が現れある重要なことに気付いた。それはある一定の角度に達すると強風でも砂の動きが止まる事である。この傾斜角度を測量し「砂が一切動かなくなる角度を発見」するに至った。
翌年、国県からかなりの予算が配分されたことで、さらに多くの村を巻きこみ砂止め柵の設置が始まった。第1丘、第二丘、第三丘と砂が自然の力で積み上がり始め標高38mの高所が出現し山は安定した。
そこで、内陸部に飛砂するすることを防ぐため植物による砂表面を被覆する必要があったので砂山を前丘と後丘に分け植生を検討した結果、前丘には海浜植物、後丘には黒松を中心に植栽を進めることのなった。この事により海岸林と砂山の安定を図ることとした。
前丘は汀線から約50~60mでその高さは標高約9mである。植栽する植物は塩害に強いネコノシタ、ハマボウフウ、ハマゴウ、イソスミレ、アズマスミレ、カワラヨモギ、ヒルガオ他14種が植えられ現存している。この植物は地中深く2mに達する根を持ち地表には網を張ったように生育し前丘を保護すると同時に貴重な生物の棲みかになっている。
後丘は標高5mから38mに達しその幅は約1.6kmである。この砂山は夏は60度近くに地表温度が上昇する(一般的に植物は地中温度が35度を越えると休眠するか枯死する)灼熱地獄と植物に必要な水分が無いことが課題であった。そこで、夏場に1m近い穴を掘り土中水分を調べた。地表20~30cmには水分は無く、50cm前後に成育に必要な水分が常にあることが確認された。このことから、植林に際しワラ束をつくり40cmの深さに埋めそのワラ束の上に赤土を置き黒松を植えたことで厚さの対策と水分補給することに成功した。この方法で黒松を中心にフランス海岸松、朝鮮松を植栽した。
この頃から毎年堆肥や油粕を肥料としたがその量が多く費用もかさみ、運ぶのも困難なことからニセアカシア、カシワ、ヤシャブシ等の肥料木を至るところに植栽することで解決を計った。
なお、予測しなかった副産物として蘚苔類や地衣類が繁殖したことから黒松の天然更新はないとされていたが松くい虫で枯れた松の間に、この海岸では自然に到る所に黒松の稚苗が確認できることは驚きとしかいえない。この理由は平たん地に山を造ったことで大量の水が山に蓄えられたことが原因と考えられる。さらに石川森林管理署の努力の結果である。
人々が夢見た樹海の森は人々の叡知と自然の力が生みだした奇跡といえる。