ハワード・ロバード・ヒューズ・ジュニア(Howard Robard Hughes, Jr.) |
地球上の富の半分を持つ男といわれた
1905年12月24日生まれ、アメリカの実業家・映画製作者・飛行家・発明家である。彼は20世紀を代表する億万長者として知られ、「資本主義の権化」と評された。
ヒューズが16歳のとき母エイリーンが病死し、その2年後に父が急死した。彼は18歳で孤児となったが、遺産として87万1,000ドルと評価されたヒューズ・ツール社の株 (75%) と当時、ほとんどのメーカーの石油・ガスの掘削機が使用していたドリルビットの特許を受け継いだ。
その後、ヒューズはカリフォルニア州に移り、かねてからの夢であった映画製作と飛行家業に莫大な遺産を投じる。この頃、彼は偽名でアメリカン航空に郵便係として雇用され、飛行技術を体得した。
周囲は当初、ヒューズにハリウッドの映画界にコネがないこと、映画制作の経験もないことから彼の手腕、映画の出来を疑問視した。だがその後、『暴力団』が第1回アカデミー賞最優秀作品賞候補にノミネートされる。また、製作費が史上初めて100万ドルを超えた『地獄の天使』や、『暗黒街の顔役』などがヒットし、成功を収めた。
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映画製作中に女優から乳房が揺れて激しい運動をすると痛いといわれブラジヤ-を発明したというエピソードがある。
ヒューズの飛行機にかける情熱の集大成ともいえるものが、ヒューズ・エアクラフト開発の飛行艇である。“機体の大部分が木製”のため、「スプルース製のガチョウ」とも呼ばれた。1947年の
完成当時、この機体は世界最大の航空機であり、現在これよりも大きな翼幅の飛行機は製作されていない。
当初この飛行艇は、アメリカ軍向けの輸送機として開発されたが、第二次世界大戦の終結により購入契約が破棄された。ヒューズが全力を傾けて作り上げたこの巨大な飛行艇は、わずか1機だけが製造され、完成後はヒューズ自らの手でわずか1回飛行しただけだった。その後はカリフォルニア州のロングビーチ港に永らく展示され、現在はオレゴン州マクミンビルにあるエバーグリーン航空博物館に展示されている。
この飛行艇は、兵士なら750名、M4中戦車なら2台を搭載でき、巡航速度時速330キロメートルで飛行できた。
当時最大の飛行艇であったマーティン・マーズの3倍もの飛行艇を作ること自体が難事業であった上、前述のように全木製とするという条件が課せられていた。全木製であっても、適切に設計すればデ・ハビランド・モスキートやロッキード・ヴェガのような高性能機を作成することも出来たが、当時のアメリカには木製の航空機に通じた技術者は少なく、設計の参考になるデータも少なかった。また、当時の木製構造の参考書には「総重量7.3トン以上の飛行機には木は使うべきではない」とも書かれていた。ヒューズ社では、爆撃機D-2の製造において、デュラモールド(薄い木の板を合成樹脂で張り合わせた合板)に通じてはいたものの、そのままHK-1に適用できるものではなかった。
まずHK-1の製造工場を整備することになったが、この工場は幅75メートル、長さ225メートル、高さ30メートルという巨大な建造物で、鉄材が不足していたこととHK-1の積層材の技術試験を兼ねることから、全て木造で建設された。これは、当時世界最大の木造建築物であった。この工場は国防工場公社が建設して、それをヒューズ社にリースする方式をとった。
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なお、世界初の有人動力飛行を行ったライト兄弟のライトフライヤー号の主構造も木造でスプルースだったそうです。比重のわりに強度が高いということでスプルースが使われていたといわれる。
スプルース (スプルス) spruce(ベイトウヒ又は北洋エゾマツも同種)シトカスプルース・エンゲルマンスプルース・ウェスタンホワイトスプルース(カナダトウヒ)を単にスプルースと称す。 我が国では一般にベイトウヒ と言う。
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北米大陸。北はアラスカから南はカルフォニア北部に分布。 シベリア大陸の北洋エゾマツも同種で、スプルースと呼ばれる。
辺心材の区別は明らかでなく、全体に白色から淡い黄褐色を呈す。木理は通直で寸法の大きな材がとれる。材は軽軟で、弾力性がある。肌目は緻密で、加工性に優れ仕上げは良好。マツ科特有の脂もほとんど無く、無味無臭の良材である。
気乾比重:0.35~0.4。